私のルーツは日本ですが、自分が日本人だとかフランスだとかいうよりも、最近はシンプルに自分は自分であるだけで良いのではないかなと思っています。私は東京で生まれ、横浜で育ちました。フランスに住んで20数年なので、人生の半分以上はフランスで過ごした事になります。現在の仕事であるレイキ・プラクティショナーに辿り着くまでには、全く違った人生を歩んできました。

フランスとの最初の出会いは19歳の時でした。社会人になったら長期の旅行は無理だろうと思い、短大卒業時に友人と二人でヨーロッパを1ヶ月半ほど旅したのです。フランスはスノッブというイメージがあり興味がなく、それよりも、イタリアやギリシャ、イギリスなどに行ってみたいと思っていました。しかし、入手できた手頃な航空券は、モスクワ経由のパリ行き。「パリで一泊したらすぐにお目当の国に行けばいいや。」くらいの軽い気持ちでフランスに降り立ちました。それなのにパリに着いた途端この街に一目惚れしてしまい、予定を変更して5日ほど留まりました。そしてパリを後にする時、いつかここに住むために戻ってこよう、と心に誓ったのです。

それまでの私は、日本でいわゆる優等生的な生き方をしていました。(恐らくは多くの人が考える「成功」の一つである)ある総合商社への就職も決まり、自分でもそれで満足していました。それは自分で考えてというよりも、周りに迎合して満足していたのだと思います。

ですからパリに着いて、人々がお互いに干渉せずに生きているのを発見した時には、良い意味で驚きでした。フランス人が普通にやっている、自分が感じるように生きる、という生き方を私は日本で経験したことがなかったのです。と同時に、「私の人生、このままで良いのだろうか?」という疑問と、「フランスだったら型にはまらない生き方ができるのではないか?」という漠然とした思いが湧き上がりました。

ヨーロッパ旅行から日本に帰国して程なく入社式がありました。多くの新入社員が集まった会場で、遠くの舞台上に社長が見えました。生で社長を見たのはこれが最初で最後でした。でも私の印象に残ったのは人事部の男性の言葉でした。「新入女子社員の皆さん、周りにどんなに素敵な男性がいても入社後3年間は辞めないで下さいね。皆さんの研修費用は高額ですから、それに見合ったお仕事をされてからでないと会社としても困るんです。」ジョーク風のこのスピーチに私は笑えませんでした。ずっと働きたいと思っていたこともあり、望まれている女子社員像にショックを受けました。そして入社式当日にもかかわらず、「ここから出なければ。」と奮い立ってしまいました。

幸いお給料は良かったので、進路変更のための投資をしつつ、将来のための貯金をすることが可能でした。私が短大で勉強したのは語学でしたが、それは「良い会社に入れる学校へ」という進路指導の先生の言葉に従った結果で、自分が語学を学びたかったからではありませんでした。本当は、小さい頃から「色や形」というものに興味を持っていたのです。が、少なくとも私の周りでは「色や形」は勉強と見なされておらず、それに加えて、その様な状況に私自身、疑問を抱くことさえしませんでした。

私は働きながら服飾デザインの学校の夜間コースに通うことにしました。また、自分にとって、世界のファッション事情を知るほぼ唯一の手がかりだった「ファッション通信」というテレビ番組を毎週月曜日欠かさず見ていました。ある日、この番組内で視聴者をパリコレレポーターとして招待するという企画があり、私は意気込んで応募書類を用意しました。そして、幸いな事に視聴者代表の一人としてパリに連れてきてもらえました。それまで本格的なアート教育を受けてこなかった自分に引け目を感じていたのですが、この時にファッション業界の著名人やジャーナリストの方々にお会いし、温かい言葉をかけて頂けたことが自信とパワーになりました。

その後、総合商社を3年で退職し、パリのモードデザインスクールを受験。こうしてまたパリに戻ってきました。パリで知っているのは、当時ボーイフレンドだった今の主人だけでした。コーペラン(軍事サービスの代わりに海外のフランス企業で働く制度)として来日していた主人とは東京で知り合いましたが、結婚するとは思っていませんでしたね。

パリでの生活は、自国でもないのに自分でも驚くほど自然に馴染めました。その頃は、インターネットも無く、国際電話も高額で日本の情報は思うように入手できませんでしたが、私はいつもハッピーでした。パリに住んでみて、日本での自分はどこか無理をしていたということをつくづく自覚しました。

パリのデザイン学校には2年間通いました。在学中には研修として、ジャン=ポール・グード監督の通訳兼アシスタントをした事もありました。日本向けテレビCM制作現場で、これは日本に留まっていたら絶対できなかった貴重な経験となりました。なにせ私ときたら(お恥ずかしながら)グード氏のことさえ存じ上げませんでしたから。

その頃は丁度フランス政府の移民対策が強化された時期でしたが、色々な方にサポートして頂いたおかげで就労ビザを取得できました。この時お世話になった方々には今でも深く感謝しています。私の中では結婚とビザは別物だったので、婚姻で就労ビザを手に入れるという方法は取りたくありませんでした。ですから、籍は就労ビザが下りてから入れました。

デザイン学校卒業後、私は、クリストフ・ルメールという会社でファションデザインの仕事に就きました。自分の仕事がとにかく大好きでした。パリのモード界では、実力とやる気さえあれば、性別や年齢、国籍に関係なく正当な評価を下してもらえます。これはフランスの誇るべき素晴らしい長所だと思っています。

フランス人のどこを変えて欲しいか?とというご質問へのお答えは「特にない」ですね。確かにフランス人達は、よく文句を言います。でも、それを変えて欲しいと私が思うかというとそうではなく、文句を言いたければそうすれば良いと思うだけです。概してフランス人は権利は好きで義務は嫌い、日本人はその反対のように私の目には映ります。

そんなこんなでパリに住みつつ仕事をし結婚した直後、主人が日本に転勤になりました。私は駐在員の妻として日本に戻り、東京で長女が生まれました。久しぶりに日本に帰って感じたのは、外国人と結婚しているということで世間から求められる基準が緩んだことです。周りと違う考え方や行動を取っても、ある程度見逃してもらえるようになりました。ですが、自由の範囲が広がっただけで、やはり一定の生きづらさは感じていました。

3年間の日本駐在期間が終わり、今度は南仏のエクス・アン・プロヴァンスへの主人の転勤が決まりました。私は妊娠8ヶ月のお腹を抱えての国際引越しで、引越し直後に長男が生まれました。幼い子供二人を育てながらパリと南仏を往復するのは現実的でなく、私は職場復帰どころではありませんでした。家庭と仕事をしたい気持ちの合間で自分の気持ちに折り合いがつけられず、日々悶々としていました。

そんな中、まだ2歳にもなっていない息子が、マルセイユの小児病院のガン病棟に救急入院しました。この2週間足らずの経験は私にとって恐ろしいトラウマとなりました。人の命がこんなに儚くもあり得る、ということを私はそれまで一度たりとも考えたことがありませんでした。

幸い、息子は小児癌ではないということが判明し、手術の後に退院させてもらえました。自分達が退院できてホッとする反面、このようなチャンスに恵まれないで病院に残り続ける子供達やそのご家族を思うと、本当に胸が締め付けられる様に痛みました。運命に心から感謝すると共に、いつか何かの形で恩返しをするために出してもらえたような気がしました。

この出来事で私の価値観は根底から覆されました。自分にとって何よりも大切なのは愛だと、はっきり気付かされたのです。好きなデザインの仕事をし、経済的にも自立した人生を送ることが自分の目標だと思っていましたが、それが一番ではなくなりました。そして、私はフルタイムで子育てをするという選択に至りました。この時期に女性の友人達から受けた励ましは大きかったです。フランスで主婦になってみて、なぜ働かないのかという質問を頻繁に受けたのは意外でした。自発的な選択だとは説明しましたが、小児ガン病棟入院のことは気軽には語れませんでした。私は、我が子の教育というのは責任が重く、とても重要な仕事だと思っています。特に、両親の文化や言語が異なる場合には尚更です。

子供達には幼い頃からいつも日本語や日本の文化を教えてきましたが、長女が南仏で小学校に上がると、私が日本語で話しかけても返事がフランス語で返ってくるようになってしまいました。反抗期も重なり、母親として私が日本語教育を続けていくのには限界を感じ始めていました。

その様な時、計5年間の南仏滞在を経て主人がパリ近郊に転勤となり、サン・ジェルマン・アン・レイに住むことになりました。この街には(幼稚園から高校までバイリンガルの一貫教育を提供している)リセ・インターナショナルという学校があり、早速子供達もそこに通い始めました。外国人(フランス人以外という意味の外国人です)の保護者が多く、価値観を分かち合える人達とも多く出会いました。

私はこの学校でボランティア活動に参加し始め、運動会の企画運営、日本語図書係、マルチ言語マルチカルチャーのアトリエのコーチなどを務めました。そして2011年の東日本大震災の後、忘れられない経験することになったのです。

それは、津波でご家族の一部を亡くされた子供達にフランス滞在をプレゼント、その際のホストファミリーになる、というものでした。ホームステイ先として我が家に来てくれた子供達二人は、我が家の子供達とほぼ同年代にも関わらず、想像するのも辛い試練を経験していました。この子達は、私に生きることの意味を今までとは違う視点から教えてくれました。今でも連絡がある度に、彼らが苦境を乗り越えて成長し、それぞれの道で羽ばたいていることを実感し、私は我が子の事のように喜びを感じています。

この14年間、リセ・インターナショナルの保護者として、このような掛け替えのない経験をし、沢山のことを学び、人間的な成長をさせてもらいました。ですから、(記者のソフィーさんには)この学校の前でのポートレートの撮影をお願いしました。

子供達がある程度大きくなった時から、私はあるデザイン事務所で時短で働き始めました。仕事をしても、母親業も学校のボランティア活動もきちんと続けることが私にとってはとても大切でした。この頃からフランスでレイキを習い、後に日本で学び直し理解を深めました。そして子供の高校卒業のタイミングで、レイキ・プラクティショナーとして独立しました。息子の退院時に感じた運命への感謝がやっと形になり始めたように感じています。今思うと、自分の人生で起こったこと全ては、この仕事をするために必要なステップだったのではないかという気がします。

日本で学んだレイキの神髄をフランスの人々にお伝えできたら幸いです。レイキは「心の平安」という禅の哲学的要素も含んでいます。人というのは、ただ身体があるだけではなく、その内なる何かをも含めて人なのです。現代西洋医学は素晴らしい技術を有していますが、身体の治療が主眼で、(レイキが得意とするような)目に見えないエネルーギー的、スピリチュアル的、な部分にはノータッチです。ですので、両者を上手く組み合わせられたら理想的だと私は考えています。いつかフランスでも、このような考え方が一般的になったら嬉しいですね。

日本の何かが恋しくなる?ということは、あまり自問したことがありません。でも、う~ん、よく考えたら温泉は恋しいです(笑)。パッと思い浮かびませんでした。

住むために日本に戻ることは今のところ頭にありません。勿論、日本は大好きですし、毎年帰っています。でも住むのは違うかなと感じます。子供達はどう思っているのでしょうね?それぞれ好きなようにしてくれればそれで良いと思っています。